一般的にノアの箱船は史実ではなく神話と考えられています。地上の全ての動物種が箱船に乗ることはないと考えられているからです。しかし、そう主張する人たちは、このことをじっくり考えたことがありません。この絵は実際に聖書(創世記6:14~16)に書かれた箱船の形と規模を表しています。その大きさは、長さ137m、幅23m、高さ13.7mで体積は43,200立方メートルです。これは大型フェリーの大きさで、羊240匹収容できる貨車522両分に相当します。一方、箱船に乗ったという動物‘behemah’は地上の動物を表していて、創造の種類(交配して子どもができる範囲;オオカミもコヨーテもイヌである)は多く見積もっ16000種類です(創世記6:19、20、7:2、3)。そしてその平均の大きさは羊よりはるかに小さいのです(子どもなら小さなねずみくらいです)。もし、動物のつがいを平均50cmx50cmx30cmのおりにいれると、16,000種で1200立方メートルになり、貨車14両強に相当します。これは箱船の収容スペースのたったの2.8%で、残りは空気、動くための余裕、食料、人間のためのスペースに十分です。(創造の疑問に答える・第13章参照)
箱船はアララテ山に漂着し、動物たちが繁殖し、全世界へ散らばりました(創世記8章、11章)。人間も箱船に乗ったノアの家族八人から全ての民族が分かれ出ました。船という漢字は舟と八と口(人口のように人の数を表す)でできていて、そのことを象徴しているように見えます。(創造の確かな証拠・48ページ参照)
創造主は洪水で当時の世界を裁かれましたが、救いの箱船が備えられていました。今この時代にも、完全な救いの箱船が備えられていて、そのドアとなられた方(イエス・キリスト)がおられます。
私は門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら救われます。また、安らかに出入りし、牧草を見つけます。(ヨハネ10:9)
ジョン・ハートネット博士は、光年の問題(聖書が教える約6千年前の天地創造と、光が百億年かけて届く距離の銀河が見えているという矛盾)に取り組み、宇宙空間が急激に膨張したなら宇宙に比べて地球の時間が引き延ばされることを計算し、一旦解決しました(時間引き延ばしモデル)。ところが博士は2017年に来日し、光年の謎を解くもう一つの全く違った考えのモデルを紹介したのです。それは創造の週の第4日目の星の創造とは、それらの星が創造された時の光が最初に地球に届いたことを言っているという理解です(時間規定モデル:初めの提案はジェイソン・ライルによる)。
これは、あらゆる出来事の認証は、観測者に光が届いた時に「現れた」と認証されることから、聖書もその語法で書かれていると理解するものです(時間規定のモデル)。観測者に「現れた」とは、単に語法だけでなく、その物理的背景も紹介されました。
光の速さはどの方向にも同じと想定されていますが、それを検証することは不可能です。例えば2つの時計を合わせるには必ず光を往復させなければなりません。片道の光では離れた場所の時計合わせができないので光速は絶対に測定できません(現在言われている光速は往復の平均値)。すなわち、宇宙全体に同調して流れる絶対的な時間は存在しないのです。ですから、宇宙で起こった出来事について、地球時間のいつ起こったかという認証は、地球にその出来事の光が届いた時以外ありません(相対性理論)。このモデルでも光年の問題は解決しました。出エジプト20:8~11とも矛盾しません。
ここで、なぜ、複数のモデルが可能なのか?宇宙に関する研究は光を観測するのみで、実験検証ができません。たとえば、宇宙が膨張していると言われていることも解釈の一つであり、検証できません。また、世界の起源に関することは、どこまでが創造主の超自然の業でどこからが現在の物理法則による営みなのか、人間には絶対にわからないからです。それで、聖書的創造論とは、聖書のみことばを前提に考察していても、絶対的ではなく、いくつもの理論が可能です。しかし、聖書のみことばは唯一で、変わることがありません。
みなさんは、聖書を読んだことがあるでしょうか?
実はそこにはあなたにも関係のある、素晴らしいメッセージが込められているんです!
全宇宙の創造主なる神は、わたしたち人間を特別な存在として造り、特別に愛して下さっています!
しかしわたしたちは創造主を無視して生きるようになってしまいました。
その結果、人生の本来の意味がわからなくなり、心はゆがみ、 互いに傷つけあい、悪いことを行なうようになったのです。
創造主は、わたしたちが積み重ねてきた罪を不問にすることはできません。
そして、罪の報いは永遠の滅び、地獄の刑罰であると、はっきり告げているのです。
しかし、素晴らしい知らせがあります!
創造主はわたしたちへの深い愛のゆえに、なんと人間イエスとなって この地球に来られ、本来わたしたちが受けるべき地獄の刑罰を、十字架で身代わりに受けてくださったのです。
また復活を通して、ご自分が生命の創造主だと証明しました。
もし創造主に対して自分の罪を認め、イエスの死と復活が自分のためだと 心から信じるなら、あなたは永遠の滅びから救われます!
人生の意味は回復され、創造主と永遠に生きるようになるのだと、聖書は約束しているのです!
科学という言葉を使うと、実験や観察などに基づいて真実を発見している、もしくは客観的な証拠で裏づけられているのだというイメージを持ちます。
この意味では、進化論は科学ではありません。進化は観察されたことがなく、実験することもできず、さらには裏づけとなる客観的証拠も無いからです。
ところで科学には、歴史科学という分野もあります。これは過去に何が起こったのかを調べようとするもので、考古学などはこれにあたります。もし進化論を科学として分類しようとするならば、この歴史科学に入るでしょう。ここで注意しなければならないことは、歴史科学においては解釈が重要な位置を占めているということです。
わかりやすくたとえるなら、歴史科学は探偵の仕事に似ています。
手がかりを集めて調べ、推理して考えたストーリーに当てはめていくのです。そのとき探偵が頭の中に持っている先入観が大きく影響します。同じ事実からでもまったく異なるストーリーを考えることが出来るからです。
ある病院で爆発事故があり、白い服を着た足を引きずって歩く人が病院から逃げ出してきたという事実があるとします。 探偵は「爆発で怪我をしたのだ」と解釈するかもしれませんし、「彼はもともと入院 していた患者だ」「足の不自由な医者だ」などと解釈するかもしれません。
進化論も、生命の多様性や複雑性に対する解釈のひとつに過ぎないのです。
先ほどの例は本人に確認すれば真実が分かりますが、生命や宇宙の起源については確認が出来ません。ですから解釈だけが独り歩きできるのです。もっと言うならば、これは信仰です。なぜなら何ひとつ実証できないからです。
では「生命や宇宙は創造主によって創造されたのだ」という考えはどうでしょう。これもまた信仰です。
これについても実証は出来ないからです。しかし、それでも、このどちらかが真実だということは言えます。事実、生命は存在しているのですから、これが 偶然によるものなのか、意図的な 出来事なのか、どちらかしか無いからです。わたしたちはどちらかの答えを選ば なくてはならないのです。