地球の年齢が若いことを示す事例を紹介すると、よく、「化石など生命体であったものの年代を直接測る放射性炭素年代測定法などが何億年という年代を‘証明’しているのではないのですか?」と質問されることがあります。詳しい説明は省略しますが、放射性炭素年代測定法で測れるのは5万年までです。ざっくり言って、それ以上古いものは放射性炭素が検出できないからです。ところが、3千万年~3億年前にできたといわれているあらゆる石炭を測定すると全て放射性炭素が検出できています。さらに、化石や生物であった炭素、すなわちグラファイト、石灰岩、方解石、大理石など、専門家が30年以上かけて地球全域を探しましたが、放射性炭素が検出できなかったものは一つもありませんでした。すなわち5万年より古いものは存在していないということです。
では、何千万年、何億年前の化石とはいったいどういうことでしょうか?進化論で5万年より古いと考えられた化石は放射性炭素測定法で測ることをせず、化石と同じ地層の火山岩を採取して放射性年代測定します。放射性元素の濃度の比率を測定し、進化論の憶測に基づいて年代が出されます。放射性元素は図の砂時計のように時間とともに親元素(砂時計の上の瓶)から娘元素(下の瓶)に自動的に変化します。ですから、娘元素が親元素に比べて多ければ古いとされるのです。しかし、それは年代を示してはいません。だれもその鉱物ができた時の親元素と娘元素の比率を知らないからです。一般的に親元素が100%で娘元素が0%であったと憶測して計算されているのです。実際、ハワイ・ファラライ火山の1803年の噴火でできた火山岩を測定すると約200年と出るはずなのに、1億6千万年から33億年という結果が出されました。また、同じ資料を複数の異なる放射性年代測定法で測定するとバラバラの年代を示すのです。放射性年代測定法は全く信頼できるものではありません。‘地球は古いはずである’という進化論の前提で計算法が組み入れられた測定システムなのです。詳細はドン・バッテン著「創造の疑問に答える」第4章を参照ください。
<目に見えない小さなバクテリア、外部の栄養を借用して生きている極めて単純な単細胞生物と考えられていました。しかし、今世紀に入って、高度な電子顕微鏡でバクテリア内部の構造が見えるようになったことでその理解が一変しました。たとえば大腸菌の細胞内に鞭毛(べんもう)を回しているモーターが見つかったのです。その構造はステーター(固定子)とローター(回転子)が細胞膜の内側に固定され、鞭毛はベアリングで保持されています。まるで電気自動車かモーターボートそっくりですが、各部品は原子、分子でできています。このモーターがどのように進化してできたのか説明不能と考えられています。偶然の進化で徐々にできたはずがないのです。モーターは完成するまでは機能せず、生き残れたはずがないからです。言い換えれば、生命は完成品で始まらなければ存在し得ないことが分かります。分子モーターは私たちの身体の細胞内にも多く存在しています。細胞内のエネルギー源であるATP分子を造り出しているのはATP合成酵素と呼ばれる分子モーターです。そして、その分子モーターを作るのにも分子モーターが必要なのです(卵が先か、鶏が先か?)。このことでも進化論が破綻しています。実際、生命について何か発見があるたびに、気が遠くなるほど複雑で精巧な仕組みが明らかになっています。 「なぜなら、 神(創造主)について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ:19、20)
子ども:「お父さん、人はどこから来て、どこへ行くの?」
お父さん:「それは・・・サルから進化して・・・サルの前は・・・ウーン」
お母さん:「産婦人科病院から来てお墓に行くの! さあ、早く学校に行きなさい」
子ども:「はーい」
お父さん:「そ、それでいいのか?」
四コママンガにあった朝の小学生とお父さんお母さんの会話です。笑えるような笑えない話ですね。果たして人間はサルから、その前はバクテリアから来たのでしょうか? 人生とは産婦人科から来てお墓に行くことなのでしょうか? 私たちがどこから来たのかわからなければ、どこへ行くのかもわかりません。
私たちの身体は、細胞内のDNA分子の指示によって組み立てられ、管理されています。DNAには30億もの文字で遺伝の暗号文が綴られていて、あなたという人間になるか、みかんの木になるかを決めています。そして、一字でも違えば病気や障害が起こります。では、そのような精巧な暗号文(ことば)はどこから来たのか。進化論が言う‘偶然’では説明できません。偶然によっては、インクや紙など目に見える物質自体が上記会話の単純な文(ことば)でさえ綴り出すことはないからです(歴史を通して観測されたことがない)。絶対にだれかが書き込んだはずですね。そういうことなら、私たちのDNAに30億もの文字で書かれた気が遠くなるほど精巧なことばは、とてつもない知性を持った作者によるはずです。(詳細は、カール・ウィーランド著「創造の確かな証拠」をご参照ください)
私たちはどこから来たのか? 聖書にはこう書かれています。
「信仰によって、私たちは、この世界が神(創造主)のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」 (ヘブル人への手紙11:3)
「初めに、ことばがあった。ことばは神(創造主)とともにあった。ことばは神(創造主)であった。すべてのものはこの方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 (ヨハネの福音書1:1~3)
最近、動物や大自然を扱うテレビ番組が盛んにダーウィンと進化論を紹介しています。特に恐竜については、テレビ、博物館、教科書、雑誌、子どもの絵本でさえ、人間が現れるはるか以前(6500万年前)に巨大隕石が地球に激突して絶滅したという説明を見聞きしてきました。ですから、恐竜とは何億年という進化の歴史を物語っていると信じられています。しかし、現実は謎だらけで、全く検証されていません。
謎1)‘場違い’な場所で見つかる恐竜の化石――①小型恐竜の遺骸が、恐竜絶滅後とされている哺乳類(化石)の胃に見つかった。②恐竜の化石の地層に植物の化石はほとんどなく、土壌の化石は全くない。など。
謎2)調査が進み、恐竜絶滅と隕石衝突の年代は無関係。隕石がもたらしたと主張されたイリジウムの地層は、今ではうやむやにされている。
謎3)化石化していない恐竜の骨(何千万年前ではない)――アメリカでティラノサウルスの骨が見つかり、その骨髄に赤血球が残っていた。
ところで、龍の伝説が多くの文化にあるのを不思議に思いませんか? 干支の龍、欧州の竜退治伝説(日本にも?)、英国の教会やアンコールワットの恐竜の彫り物(上の写真)、世界中の洞窟壁画などは化石から復元した恐竜にそっくりです。聖書にもドラゴン(tannin)の記述(ベヘモスなども)があります。もし、聖書の歴史を文字通り受け取るなら、人間と恐竜が共存していたはずです。そして、ほとんどはノアの洪水で死滅したのでしょう。(化石の成因)。
箱船に乗って(約50種、子どもの恐竜なら十分乗れた)生き残ったものから再び世界中に散らばりました。少し遅れて人間がバベルの塔から散らばったことで、世界各地で遭遇したはずです。他の多くの動物と同じように退治され、次第に数を減らして絶滅したのかもしれません。絶滅は進化ではありません。そして、恐竜が恐竜でないものから進化したことを証明する化石はありません。
進化論より聖書(創造論)の方が恐竜の謎をすっきりと説明します。私たちは今日、生物が新たに出現(進化)するのではなく、絶滅ばかりを見ているではありませんか。
(ドン・バッテン著「創造の疑問に答える」第19章 参照)
科学という言葉を使うと、実験や観察などに基づいて真実を発見している、もしくは客観的な証拠で裏づけられているのだというイメージを持ちます。
この意味では、進化論は科学ではありません。進化は観察されたことがなく、実験することもできず、さらには裏づけとなる客観的証拠も無いからです。
ところで科学には、歴史科学という分野もあります。これは過去に何が起こったのかを調べようとするもので、考古学などはこれにあたります。もし進化論を科学として分類しようとするならば、この歴史科学に入るでしょう。ここで注意しなければならないことは、歴史科学においては解釈が重要な位置を占めているということです。
わかりやすくたとえるなら、歴史科学は探偵の仕事に似ています。
手がかりを集めて調べ、推理して考えたストーリーに当てはめていくのです。そのとき探偵が頭の中に持っている先入観が大きく影響します。同じ事実からでもまったく異なるストーリーを考えることが出来るからです。
ある病院で爆発事故があり、白い服を着た足を引きずって歩く人が病院から逃げ出してきたという事実があるとします。 探偵は「爆発で怪我をしたのだ」と解釈するかもしれませんし、「彼はもともと入院 していた患者だ」「足の不自由な医者だ」などと解釈するかもしれません。
進化論も、生命の多様性や複雑性に対する解釈のひとつに過ぎないのです。
先ほどの例は本人に確認すれば真実が分かりますが、生命や宇宙の起源については確認が出来ません。ですから解釈だけが独り歩きできるのです。もっと言うならば、これは信仰です。なぜなら何ひとつ実証できないからです。
では「生命や宇宙は創造主によって創造されたのだ」という考えはどうでしょう。これもまた信仰です。
これについても実証は出来ないからです。しかし、それでも、このどちらかが真実だということは言えます。事実、生命は存在しているのですから、これが 偶然によるものなのか、意図的な 出来事なのか、どちらかしか無いからです。わたしたちはどちらかの答えを選ば なくてはならないのです。