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安井 亨(バイブル&クリエーション/ゴフェルトゥリー・プロダクション)
私は、大手電機メーカーで電子情報機器のハードウェア開発に従事する技術者でした。日本において高度成長時代であった1980年代半ば、開発競争は熾烈を極めていました。それで、私は月曜から土曜まで毎日真夜中まで仕事をしていたのです。
私には、妻と幼い女の子と男の子がいましたが、日曜以外に顔を合すことはまずありませんでした。私の上司はよくこう言っていました。「安井君、仕事人の価値とは、どこまで自分と家族を犠牲にして仕事に打ち込めるかだ。」――私は、多くの意味でその上司を尊敬していましたが、仕事においては大変厳しい人でした。
そんなある日、私は人事から呼び出されました。「安井君、海外転勤だ。家族同伴で。」 通常、家のことは家族に任せて1週間後に渡航し、3か月後に家族を渡航先に呼び寄せるのが普通です。しかし、私の場合はなぜか渡航が3年も遅れたのです。
私は街の英会話学校に行きました。先生はアメリカ人宣教師でした。私の妻も英会話を習いたいというので、その宣教師がいる教会の英会話教室に行くようになりました。そして1年経って妻は私にこう言ったのです。「あのね、私、イエス・キリストを信じてクリスチャンになったのよ。」 私は、生活がどうなるか見ていると、とても面白くないことになりました。
私にとって貴重なプライベートな時間である日曜日に、朝、・・・いや(疲れているので)昼に起きたら家族がいないのです。妻が子どもたちを連れて教会に行っている!!! そして、しばしば午後遅くに、車で家族を迎えに行くのですが、問題を感じていました。その教会には私の英会話の先生がいるのです。見つかると、「ああ、安井さん、よく来ましたね。」と言って、教会に連れ込まれるに違いない、と恐れていたので、車を教会から少し離れて停め、教会から人が出て来ると首を引っ込めて隠れていました。
私の家の中には妻の聖書がありました。そして、妻がいない時に聖書をちらっと見ました。当然聖書の初めから読みます。するとつまずきました。天地万物が6日間で創造され、人間は大人から、エバはアダムの肋骨から・・・。教会にいる人たちはどう信じているのだろう?思考停止しているのか?
しかし、しめた!と思いました。進化論をよく調べて教会の人たちを論破しよう、聖書は非科学的だと。そうすれば家族は教会から取り戻せると思ったのです。そしてさらに1年が過ぎた頃、私は意を決し、教会に足を踏み入れました。そして、「進化論と創世記は矛盾している。どう説明するのか?」と切り出しました。しかし、その場所にいたのはアメリカ人宣教師ばかりで、そのようなことを英語交じりの日本語で話しても通じるはずはありません。せっかく勉強して来たのに、・・・。野球でバッターボックスに立って見逃しの三振をしたような気持でした。しかし、彼らは私に棚にあった一冊の本を貸してくれました。進化論の争点 (Sylvia Baker著、宇佐神正海訳)という本でした。
私は家に帰り、その本を開いて驚きました。あの神話のように思った創世記の記事について科学的にコメントしているのです。興味深く感じた一方で、次はその本の矛盾を見つけ出そうと考えて創造論の本を読み漁ることに・・・。
しばらくして私は、科学的と思っていた進化論がそうではないことに気づきました。それで、妻に、「あのね、ひょっとしたら、真理は進化じゃなくて創造かもしれないね」と何気なく言ったのです。すると、妻はすかさず、「そのことがわかったら教会へ行くって言ってたじゃないの」と言いました。「しまった」と思いました。進化論は否定できないと思って軽く言ったことがあったからです。
私は怖れを感じ始めました。もし、創造が本当なら、・・・私を創造した存在がいるということ、・・・。私はメーカーの技術者で、こう考えました。製品には設計者がいる。製品の存在意義と目的は製品自体にあるのではなく、設計者が製品にその意義と目的を持って与えているのだ。すると、私に創造者がいるなら、私の存在意義と目的は創造者が持って与えているということか?!・・・。これは権威の問題だ!!!
私の怖れはこういうことでした。起きているほとんどの時間を会社で仕事をしている私にとっては会社と上司は権威でした。そして家に帰れば妻が・・・、これは冗談。それでこれ以上の権威は要らない!・・・と思ったのです。それで、私は日曜日にもっと教会から離れて車を止め、車の底に隠れて家族を待つようになっていました。宣教師というよりも、創造主である神から逃げ隠れをしたのです。自分の創造主を意識したとたんに逃げ隠れをする、今思えば、アダムがしたこと(創世記3:8)と同じでした。
海外転勤の話があってから3年経っていました。渡航前に海外出張がありました。製品のテストなどで何度も飛行機を乗り換えなければなりませんでした。当時、ハイジャックなどの事件や事故が話題になっていて、不安に感じていました。空港に向けて家を出る時、妻は私にこう言いました。「あなた、まだ信じていないでしょ。もしハイジャックや事故があるなら、飛行機が墜落する前にイエス・キリストを信じるようにね。」 創造主から逃げ回っていた私はにわかに動転し、「ほっとけ」ということを言ってバスに乗りました。
すると、バスの中で落ち込んでしまったのです。万が一にも事故があったら・・・どうしよう? 私が妻に最後に言った言葉とは・・・、「ほっとけ!!!」。私は、これは様にならない、と思いました。この言葉だけ取り消したいと思いました。それで空港で搭乗間際になってようやく意を決し、あたふたと妻に電話をかけてこう言いました。
「あのね、さっき『ほっとけ』と言ったことを取り消したいんだけど・・・」
すると妻は「えっ、じゃあ、イエス様を信じるのね?!」と言ったのです。
私は「しまった」と思いました。喉からもう一度「ほっとけ」が出かかったのですが、それでは繰り返しになる!やけくそで、「わかった、信じるから、お祈りしてくれ。」と言って、そして飛行機に飛び乗りました。
そして、飛行機の中でまた「しまった!!!」と思いました。しかし、男が一度言ったら・・・、という変なプライドで、歯を食いしばってクリスチャンを始めたのです。果たして、こんな経緯でクリスチャンになってよいのだろうか!?
それから、私は長い海外出張から帰国し、洗礼を受けた翌週にイギリスに転勤、家族共に8年間住みました。
後になって、私が怖れを感じた権威のこと、私が思い違いをしていたことに気づきました。イエス・キリストはご自身の権威についてこう言われたのです。
だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」 (ヨハネ10:18)
当時、権威に対しては私が犠牲を払うものと思っていました。しかし、イエス・キリストの権威は逆でした。何と、宇宙も私をも創造された方が、死から私を救うために、私の身代わりに十字架で死なれる権威だったのです。今では、私はこのことに圧倒されています。ハレルヤ!