よく、クリスチャンは、「悔い改めよ、イエス様があなたの罪のために死なれた!」と伝道します。しかし、聖書の土台のない日本の人たちは、「なんと奇妙な考えなんだろう。自分は罪人ではない。外国の神はいらん」という反応をするのです。自分の創造主を無視して、自分を基準に生きていることが罪であるという聖書の世界感を持ち合わせていないからです。
聖書に異邦の国ギリシャで起こった同様のことが書かれています。
「エピクロス派とストア派の哲学者たちも幾人かいて、パウロと論じ合っていたが、その中のあるものたちは、「このおしゃべりは、何を言うつもりなのか。」と言い、ほかの者たちは、「彼は外国の神々を伝えているらしい。」と言った。パウロがイエスと復活とを述べ伝えたからである。」(使徒17:18)
「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとってはおろかでしょうが、」(第1コリント1:23)
ですから、おろかなことと反応したギリシャの人たちにパウロは次のように伝道しました。
「私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神(創造主)は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。」(使徒17:23、24)
すなわち、パウロは、まず、万物の創造主を伝えることから伝道を始めています。ギリシャは進化論(ギリシャ哲学は進化論)と多神教と偶像の国であったからです。
さて、今の日本は進化論、八百万の神々と偶像の国。当時のギリシャとそっくりではありませんか。もっとも福音の伝わりにくい国と言われる背景にはこのことがあるのではないでしょうか。もっとも、近代、進化論がパラダイム化したことで、キリスト教国といわれる国々も聖書の土台を喪失してきたと言われています。パウロの異邦人伝道は今日の世界に、特に日本伝道の指針となるのでは。
上図(AIG提供):「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。(エレミヤ4:3)